きりしま月の舟

追悼・小平トシ子

2025.06.26更新


 わが庭のクチナシの花が満開で、その花と香りを慈しんでいる頃、実母の小平トシ子が他界いたしました。

 6月21日午後2時46分。夏至の日に光に還った母。享年97歳。いわゆる老衰の、大往生でした。肺炎にもならず、あっぱれだったよ、かあちゃん。

 2022年の春に施設や病院にお世話になって3年、最期は、実家のすぐ近くの守屋病院に入院中で、きみちゃんが6月16日に面会に行ったときは、食事が摂れなくて、点滴だけになっていました。

 これまで何回も点滴だけになっては、また流動食が食べられるようになり、看護師さんたちも奇跡の生命力と絶賛されていた母だけに、きみちゃんは今回もまた回復するだろう、と思っていました。

 ところが、そのときの検査で、持って3週間とのこと。覚悟は決めておりましたが、6月21日の午前中、ちょうど村上春樹マラソン(読書会)の途中、弟からのLINEで「あと持って3日の状態」とのこと。

 村上春樹マラソンが盛り上がっておりましたので、そのまま次の連絡を待っていたら、午後2時過ぎに弟から「亡くなった」との連絡。ちょうどお客様が途切れた頃で、後かたずけをして、娘たちにも連絡して、実家(弟の家)に向かいました。

 長女と次女は妊娠中で、長女は明日にも産まれそうな状態ですから、三女が三姉妹を代表して鹿児島に帰って来てくれました。

 そして、なんと6月23日、母の葬儀の日、わが長女は出産し、母にとっての10番目のひ孫を生みました。素敵な宇宙の采配。美しい男の子の赤ちゃんです。母子ともに健康。ありがたいですね。

 わたしたち夫婦が実家に帰り着いたのが、午後5時。母は病院から家に帰ってきていました。最期、胸水、腹水が溜まり、点滴だけだったのもあって、身体がむくんでいました。それでも、母はとても美しく、神々しいくらいでした。

 翌日の納棺のときに、兄嫁さんと弟嫁さんときみちゃんの3人で選んだ水色のワンピースを着せて、オーガンジーの帽子、掛け布団の上から着物をかぶせて、いつも履いていた靴を納めました。

 1935(昭和10)年3月25日、与謝野寛が亡くなったとき、妻の晶子が詠んだ歌を思い出します。

 筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我を愛できと

 晶子は寛が亡くなったとき、子どもたちが寛愛用の筆や硯、そして煙草を棺に入れていくのに対して、寛が最も愛したのはこの妻であるわたしだ、とは、さすがの晶子も言い出せなかった、という歌。

 きみちゃんは与謝野晶子を大尊敬しておりますゆえに、この歌が大好きで、今にも棺に足を入れて、寛の亡骸に寄り添おうとする晶子が浮かんできます。

 母は帽子を愛用していたので、とくに見覚えのあるオーガンジーの帽子を亡骸にかぶせると、まるで皇族方のような気品があって、とても素敵でした。

 きみちゃん的には、愛用の帽子を被った状態で納棺したかったのですが、頭が小さくなって帽子がゆらゆらしていたため、帽子は脇に置きました。

 22日夜お通夜、23日午前11時より葬儀、午後火葬場にて、母は骨となり、24日の午前中に納骨をすませました。

 妹はちょうどアメリカから帰って来たばかりで、21日夜に羽田空港からそのまま駆けつけてくれました。従妹たち、親族が次々と駆け付けてくれます。

 母はやはり「アイドル」だったなあ。父と母が立ち上げたガス会社の元社員の方々もそれぞれが連絡を取り合って、お通夜やお葬式に駆け付けてくれました。「奥様にはお世話になりました」と皆様、ご挨拶をくださいます。

 弟嫁さんが遺品のなかに、料理教室をしていた頃のレシピ集を2冊見つけ出してくれて、それを葬儀場に飾りました。このレシピ集は、郷土料理研究家の石神千代乃先生のスケッチ画を表紙にして、半年分くらいを一冊にまとめてありました。

 両親は、農機具を作る鍛冶屋からガス屋に転身するにあたって、ちょうどできたばかりのガスオーブンを使った料理、たとえばロールケーキを作るような料理教室をはじめて、母がその中心になったのでした。

 石神千代乃先生の監修のもと、石神先生のお弟子さんやたまに石神先生ご自身も、そのころの拠点であった串木野までいらしてくださって、母がその段取り、ときには講師も勤めながら、長く続きました。

 串木野時代の我が家の台所は、料理教室兼用で、卓球台みたいな調理台が4,5台はあったかな。今の公民館の調理室くらいの広さはありました。毎週土曜日の午後だったような。小学校の先生方もおいでで、たくさんの方に受講していただき、地域文化の最先端を行っていたと思います。

 そのレシピ集には、全部ではないけれど、母がそのレシピを栄養計算した便箋が挟まれていて、おそらく、そのレシピに合わせての買い物なのか、何を何グラム買えばいい、などのメモも挟まっています。

 思うに、母は「理系女子(りけじょ)」であったなあ、と思うのです。いつも母は、結婚せずに独身でいたら、看護婦長になりたかった、と言っていましたし、人のお世話も情でやるというより、テキパキと合理的にこなす感じ。

 文学者であり、教育者であるきみちゃんとは違い、科学者であり、人に教えるよりは自分でやりたいタイプの母。その世界観はいつもすれ違い、きみちゃんのことを自慢してくれる割には、なんでこんなに儲からない文学なんかをやるのか、というような意見をいっぱい聞かされました(笑)。

 それでも、きみちゃんの仕事をいつも応援してくれて、特に文学散歩には父と一緒に、また父が亡くなってからは、お友達と一緒にいっぱい参加してくれました。源氏物語のテキストも密かに手に入れて、独学しようとしているようでしたが、「さっぱりわからない」と優等生の母には悔しい思いをさせていたみたいです。素直にきみちゃんに「教えて」と言えばいいのに、それをしない母。日本古典文学の独学は、一般の方には無理です。ちゃんときみちゃんの講義を受けてくださいね。

 母は、どんなときも「特別」でありたがっていました。わたしに何かを教わるのではなく、あるいは誰かから何かを教わるのではなく、いつも「特別」な席にいたがった。教えてもらわなくても、何でもできる、と思っていたかも。

 良い先生というのは、良い生徒でもある、というのがきみちゃんの持論で、教える人は、学ぶ人でもあらねばならない。いっぱい学んで、教えることに活かす。他人様から教えていただくことに敬意を表すこと。

 葬儀の最後で、喪主である兄の挨拶がありましたが、これがまた笑いを誘い、大うけで、親族一同、兄がどんな挨拶をするのか、ちょっと心配していたのですが、きみちゃんも挨拶を終え、席に戻ってきた兄に「グッジョブ」サインを送ってあげました(笑)。

 父のときもそうでしたけど、わが一族の葬儀は笑いが絶えず、ちょっと見には不謹慎かも(笑)。火葬場まで遺影を運ぶ霊柩車のなかでも、兄とわたしと妹で思い出を語り合い、涙にむせぶのではなく、大笑いして、運転手さんも笑うに笑えなくて困ったかも。

 兄の挨拶はこんな感じ。母は、12歳の頃からチビママのような存在で、長女として、一家の中心で、早くから身体の弱い、お嬢様育ちの祖母の替わりをしていました。(実際、いま唯一生きている母の妹は、母より16歳年下。昭和20年に生まれて、生まれたての赤ん坊である妹を、母は防空壕に抱いて入り、出る時にその赤ん坊を落っことして、父親にひどく怒られた、というエピソードを叔母から聞いたばかり)。一番下の母の弟は、兄より三歳上なだけ。

 母は22歳で父と結婚し、それはある意味、政略結婚でした(ここで、大笑いが起きました。政略結婚なわけないでしょ、ただの貧乏な鍛冶屋の家同士、兄弟子の息子とおとうと弟子の娘が結婚した、だけのこと)。

 母は、60歳を過ぎてゴルフを始め、ペアゴルフ大会で、元プロ野球選手の鵜狩さんとペアを組んで優勝したのでした(母は見かけによらない抜群の運動神経とビデオでゴルフの研究するなどの努力を重ねていました)。

 そして、優勝したその夜の懇親会は、我が家でやって、優勝して自宅に帰ってきた母は、そのまま懇親会の料理の支度をし、采配し(たぶん20人分の料理をちゃちゃっと作った)、みんなとビールを飲んで大騒ぎして、後かたずけまでする(また翌日は何事もなかったかのように、普通に生活し、仕事をする)、そんな母でした。

 確かに、兄の言う通り、母は、どんなときも大量の料理をしてもてなす。それが自分の祝杯であっても、父の祝杯であっても同じ。それが母の最大の特徴だな、と兄の挨拶を聴きながら思いました。

 考えてみれば、それって、いまのきみちゃんと同じじゃん。母と同じことをしてる。自分で企画したイベントをして、終わったら、スタッフさんや出演者の皆様に大量の料理を作って食べさせる、というの、母と同じじゃん。

 母は本当に働き者で、家が散らかったことがなく、食事は三度三度、欠かしたことがなく、どんな準備も抜かりがなく、忘れ物をしたことがなく、遠足のお弁当は、お友達が見学に来るくらい凄くて、完璧な母でした。

 ああ、母の娘に生まれて良かった。これが「ずんだれ」(だらしない、という意味の鹿児島弁)な母であったら、今のわたしはないですね。かあちゃん、ありがとう。

 こんなに完璧で素晴らしい母なのに、どうしていつも父を怒らせ、わたしたち子どもを怒らせていたのか。

 先程書いたように、母は科学者だったのですね。その価値観がいつも合理的ではあったけれど、愛ではなかった。いえ、愛はあったけど、愛情表現がとても下手だった。

 価値観が狭い、というのか、良妻賢母の枠だけで物事を考えている、というのか、他人を容易に信頼しないし、愛情を受け取るのも下手だった。

 たとえば、何か料理したものとか、プレゼントを持っていくと、受け取らないで「持って帰りなさい」とただちに言われる。こっちはよろこばせようと持っていくのに、それを受け取らない。受け取ったら負ける、くらいの勢いで突き返されるのです。

 それは介護においても同じだったかな。誰と誰を手下にして、介護させる、というプランを母は持っていたと思うのですが、感情的にはきみちゃんに世話してほしかったかな。でも、きみちゃんには仕事があるから、介護させるわけにはいかない、という葛藤のなかにあったように思います。きみちゃんもまた、母の介護を引き受ける自信がなかった。科学者のような母に、毎日ああでもない、こうでもない、と指示される生活に耐えられる自信はなかった。

 結局、きょうだいで話し合って、施設にお願いしたのですが、結果的にはそれが最高の選択だったと思います。施設の方に親切にしていただきましたし、最期の病院での生活は、これが自宅であったら、あのように快適な環境には置けないよね、というくらい清潔で配慮された空間で息を引き取った母は、幸せであったと思います。

 今思えば、小学生の頃、算数の宿題をいつも張り切ってやってくれていた母。難しい問題は、兄とふたりで解いたりして。「きみこちゃん、すごいね。こんな難しい問題を解けたんだね」と学校で先生に褒められましたけど、それは母と兄が解いた、とは言えなかった(笑)。

 母はよく「源氏物語は、あんたよりわかる」と言っていましたが、そんな嫌味もまた、母の愛であった、と思います。わたしのやっている仕事に深い関心を寄せてくれていましたからね。

 わたしの娘たちにも、仕事で忙しいきみちゃんに代わって、花嫁修業をさせてくれていました。娘たちは、母の料理で育ったようなものでもありますし、大学にも母のおかげで行けましたし、お洋服もほぼジジババ調達でしたからね。

 優等生で、愛情も深かった母。お通夜にも葬儀にもたくさんの方が参列してくださいました。そのほとんどが、母の料理を食べた方ばかり。食の偉大さを感じます。母の料理教室レシピ。ユタカ君がいま製本中です。

 何と言っても、母の最大の幸福は、わたしたち4人の子どもだったと思います。4人それぞれが良い結婚をし、母にとっては孫が10人、ひ孫が10人。この11月には11人目のひ孫が産まれます。

 わたしたち夫婦の仲が良いのも、父と母のおかげです。母の葬儀に際して、父と母が築いた一族の基盤の深さに思いが至り、感無量でした。こんなに人を愛し、愛され、そうして事業を発展させてきたんだな。

 いま、甥っ子たちが3代目として両親の事業を受け継ぎ、発展させてくれています。ありがたいことです。嬉しいです。大感謝です。

 最期に両親の世話を一手に引き受けてくれた弟夫婦に感謝します。いつも母の居住空間を留守の間も掃除してくれていた姪っ子のふみちゃんに感謝します。東京から何度も帰省してくれた妹に感謝します。いつも笑わせてくれる兄、美しい兄嫁さんに感謝します(母の葬儀に、兄嫁さんは絽の喪服を着て参列してくれて、着物好きのきみちゃんは大感動でした)。

 同じように、わが娘たち、わが孫たちに感謝し、いつも彼らを見守り、最大の幸福を願っています。

 もちろん、最愛のユタカ君は特別な存在。あと30年は仲良く暮らしていきます。最高に愛し合い、月の舟を愛で溢れさせます。

 通夜、葬儀にご参列くださいました皆様、本当にありがとうございました。

 まだまだ母との思い出を書いていきます。従妹たちが、母のことをいろいろと話してくれるので、いつかそれを聞き書きして、まとめていきたいな。弟が父のことを書いたように、きみちゃんが今度は母のことをまとめるかな。

 母の葬儀の間に、デザイナーの村山さんが「女神ヒーリング」のパンフレット作成と、「きりしま月の舟」のHPへのアップを完成してくださいました。その細やかなお仕事に、本当に感謝いたします。いつもいつもきみちゃんの気持ちを丁寧に掬い取ってくださって、大感謝です。

 「きりしま月の舟」のHPのなかの「神話の里の女神ヒーリング」のバナーからお申込みいただけます。とても申し込みやすい仕様になっておりますので、どうぞ気軽にお申込みくださいませ。8月末までお申込みの皆様には、月の舟超女神コースは半額となっておりますので、このチャンスをお見逃しなく。

 きりしま月の舟、6月25日から30日まで臨時休業をいただきます。女神ヒーリングはやりますので、すでにご予約の方もご心配なくお越しくださいませ。

 昨日も、臨時休業中でしたが、午前中にいらした若い方に「コーヒーならお出しできますよ」とお声かけしたら、本好きな方で、遠方からおいででしたので、結局、昼食、夕食、朝食をご一緒して、本もお買い上げくださり、女神ヒーリングの体験セッションも受けてくださって、とても歓んでくださいました。昨日ご予約の方も妹さんとご一緒においでになられて、これまた素晴らしいヒーリングができました。大感謝です。

 いつもブログを読んでいただきまして、大感謝です。これから女神ヒーリングにさらに力を入れて参ります。食と癒しと学びの月の舟でどうぞゆったりとお過ごしくださいませ。わたしたち夫婦も、母がくれたミニ休暇だと思って、いろんな整理整頓をしながら、7月を迎えます。

 かあちゃん、ありがとう。メガトン級の感謝を捧げます。