超一流のバカになって言えること
2025.01.24更新
母についての思いをあれこれと巡らしているなかで、気づかされるのが、わたし自身が母を全肯定していなかったんだなあ、ということ。
親には全肯定してほしかったと言いながら、きみちゃん自身が理想の、完璧な母を求め続けていたんだなあ。なんてひどい娘でしょう。
毎日のお弁当の豪華だったこと、すべての部活動のとき、遠足のとき、母のお弁当は、みんなが見に来るほど、豪華でした。中学生のとき、牛肉のしぐれ煮は、土曜日の部活動のときのお弁当に入っていて、K君がそれを毎回つまみ食いに来るほど。
小学校、中学校の遠足のときのお弁当は、おむすびとサンドイッチのコラボで、おかずもいっぱい入っていて、もちろん、果物も入っていて、今思い出しても、超豪華だったなあ。「きみこちゃん、いいねえ」といつも羨ましがられていたなあ。
それなのに、きみちゃんときたら、娘たちのお弁当には、チキンナゲットしか入れなかったというチキンナゲット事件というものがあったり、実にひどい母親じゃないのさ(笑)。
訳の分からない、不安定な文学なんぞを仕事にして、大学教授にもなれないような不良娘を優等生の母が許すはずはないのに、認めてほしい、と60歳過ぎまで不満に思っているなんて、かっこ悪すぎるよ、きみちゃん。
どれだけ、母に良くしてもらったか、子育てを手伝ってもらったか、どれだけ経済力をカバーしてもらったか、計り知れない恩恵を受けてきたのに、貧乏人呼ばわりされてふてくされているなんて、かっこ悪すぎるよ、きみちゃん。
これだけお世話になったのに、介護もしないで、介護よりも仕事を選んで、それを母は文句も言わずに、きみちゃんに思い切り仕事ができるように計らってくれたというのに、そのお礼も言わないままで、失礼すぎるよ、きみちゃん。
かあちゃん、あなたは完璧な母でした。たくさんの愛をありがとう。
そして、母であることの豊かさを想います。子どもを産み、育てることの豊かさを想います。立派な仕事、お給料の高い仕事も素晴らしいけど、母親であること、子どもであること、それはみんな誰かの子どもなんだけど、そしてみんなには必ずお母さんってものがいるんだけど、その母であること、子どもであることの、ただそうであることの重たさ、豊かさをいま思います。
ただ、この地球に生まれたということ、ただ生きているということ、ただそれだけで、わたしたちはすでに豊かなんだなあ。
かあちゃん、ありがとう。今度こそ、腹の底から、感謝の言葉をいっぱい言える。
きみちゃんは、こうしてブログを書き続ける物書きであるし、ヒーラー&カウンセラーでもあるので、「正直」であることは、自分の中心にあるものですから、母への思いを折に触れ、正直に綴ってきたつもりですが、ようやく母との関係が豊かなものであったと気づかされました。母への感謝を、正直に、腹の底からようやく言えます。
母が、自分は幸せだったと思ってほしいなあ、と願っていましたけど、実は、きみちゃん自身が、母の子どもで良かった、母が自分の母で良かった、といま、心底思います。
母は愛の受け取り下手であったので、きみちゃんだけでなく、わたしの兄弟も亡き父も親戚たちも、母の一方的なお世話と毒舌に食傷気味であったと思いますが、それもまた、母にとっての「0」としての真実の愛であったんだろうなあ、とようやく今にして思います。
どんな形であれ、親は、子どもに愛を注ぐものなんだなあ。それは、自分自身が一番良く知っているでしょ。親子って、見捨てても見捨てても、切っても切っても切れないものがあるんだよね。
その家族愛を、人類愛に広げていかないと、狭い愛のなかで苦しむことになる。だから、きみちゃん、ようやく今、かあちゃんに魂からの感謝と尊敬の気持ちを捧げます。そして、ようやく「さようなら」が言える。
かあちゃん、ありがとう。感謝しています。尊敬しています。
超一流のバカになるって、こうした普遍の愛を知ることかもしれません。それはカッコいい言い方だけど、また逆に不正直と正直の狭間に立つようなリスクがあるけど、そんな甘ったるい言葉を心底、本気で言えることが、超一流のバカなんでしょうね。
超一流のバカになって、母に感謝と愛と尊敬を捧げます。やっぱり、かあちゃんには勝てないわ。惨敗。