きりしま月の舟

自分を赦す

2022.02.09更新


 今日は水曜日です。いつもだったら、鹿児島市内で文学講座があり、霧島を留守にして、一日、講座、買い物、着物着付けの練習などで充実した時間を過ごすのですが、その文学講座がコロナ禍で2月いっぱいお休みになっていますので、今日は、きりしま月の舟をオープンにして、ランチを用意して、お客様をお待ちしておりました。

 先週も鹿児島市内での講座がお休みでしたから、きりしま月の舟を開けようと思えばできたのですが、溜まった仕事を片付けておりました。少し疲れてもいましたし。

 今日は、最初からオープンにして、営業中の旗も立て、準備万端整えておりましたら、ぼちぼちとお客様がお見えになりました。

 そして、言っていただいた言葉が嬉しいものばかり。「早くここを知りたかったなあ」「すべてに満足でした」と、ランチも美味しかった、カフェの雰囲気も良かった、会話も楽しかった、と褒めていただきました。

 ユタカ君とふたり、開けてよかったね、と嬉しい気持ちでいっぱいでした。わたしたち夫婦もまた、お客様との会話をとことん楽しんで、素敵な時間でした。

 コロナ禍で、いろんなことが番狂わせになっていますが、できるだけ前向きな気持ちをなくさないように、昨日は、いつものように伊地知鮮魚店でお魚を買い、必要な食材をきちんと揃えて、ランチは新鮮なものをご用意しました。

 伊地知鮮魚店で、それはそれは活きのいいイワシがあったので、それを開いてもらって、今日はコンフィにして出したら、とっても好評でした。普通だったら、イワシの梅煮となるでしょうが、そこはお料理センスの高いきみこさん(笑)、コンフィといきました。オリーブオイルとレモンとニンニクでことこと煮るだけなんですけどね。失敗がないし、めちゃめちゃ美味しいです。お試しあれ。

 豚肉と冬野菜とスープ煮にして、これまた大好評。キャベツとカブの相性はいいなあ。長ネギと白菜の芯のところが良い仕事をしてくれます。

 昨日は昨日で、3月の2周年イベントに出店したいと言われる方の面接をしていたら、「カフェが空いてますか?どこも開いていなくて、お友達とコーヒーを飲みたいのですが」との電話があり、お休みでしたけど、受け入れました。

 写真展や本棚をとても楽しんでくださって、わたしたちとの会話も弾みました。次に行かれるところの観光案内もして、とっても歓んでもらえました。

 ほんと、毎日、素敵な時間が流れます。ありがたいなあ。ユタカ君も優しく、いつもふたり仲良く暮らせて、娘たちからも優しい言葉をかけてもらい、嬉しい限り。

 先日、YouTube動画を観ていたら、はっと気づかされる言葉に出会いました。えんじいさんとおっしゃる方の動画ですが、この方は、並木良和さんの大ファンで、並木さんの著書、オンラインサロンなどで、自分がピンときたことの解説をされています。

 わたしも並木さんの本はほぼ全部読んでいるので、えんじいさんの言われることに「そうだなあ」といつも相槌を打ちながら聞いているのですが、今回は、特に「そうだよねえ」と深く頷きました。

 「anemone」という雑誌の並木良和特集の話をされていて、そのなかの「エルモリヤ」という高次元存在のメッセージについて、えんじいさんが解説しておられて、そのなかの「自分を赦す」という言葉に、深く頷いたのです。

あるときは罪を犯す側として、あるときは罪と呼ばれるような行為を受ける側として、

またあるときは罪人を罵る側として・・・

これらは立ち位置が異なるだけで、「すべて同じ」ことである。

つまり、自身の中にある「罪悪感」を手放さない限り、

これらのドラマを終わりにすることは決してできないのだ。

もう自分も相手も、他の何をも責めることをやめ、

まずは、「自分自身を赦そうと決める」ことである。

そこから、すべてがドミノ倒しのように変わっていくであろう。

赦すことは「受け入れる」ことであり、あらゆる可能性を拓くことでもあるのだから。

 ほんと、打ちのめされるくらい、そうだなあ、と納得しました。この特集雑誌も隅から隅まで読んだつもりだったし、自分を許すことはできている、と思っていたけど、まだまだだなあ。

 ここでは、「許す」ではなく「赦す」と書いてありますしね。わたしも自分を「許す」ことはできていても、「赦す」ことはできていなかったかも。

 罪悪感って根深いものだよね。子育てを放棄しているように見える人に腹を立てたり、また病院のベッドから落ちた、という老母を悲しんでみたり、わたしの行動にいちいちうるさく干渉してくるユタカ君をうっとおしく思ったりしているわたし。

 そうした思いは、すべて「わたしが悪い」とか「力あるわたしがもっと何とかできるんじゃないか」という気持ちであるのだけれど、よく考えてみたら、それらはすべて相手を「信頼する」ことで解決できるんじゃないか。

 子育てを放棄したかに見える人でも、その子どもたちがそういう親を持っても、強く生きていくだろう、と思う信頼感。その親もまた、もっと豊かな愛の表現を身に着けるだろうという希望。

 病院のベッドで静かに寝ることなく、ジタバタする母に「わたしが何とかしてあげる」という傲慢さでも、自分が引き取ればよかった、という罪悪感でもなく、母は母なりの生き方をしていることへの信頼感を持つしかない、ということへの気づき。

 そして、「わたしが、わたしが」としゃしゃり出る自分をちゃんと赦してあげる。

 月の舟ホールを建てることを、先日、きちんと自分に許可を出しました。ゴールドカード会員さんを一千人にすることにも許可を出しました。

 でもまだ、それは「許す」段階であって、「赦す」まで至っていないのかも。自分の根源をもっと大切にし、認め、愛さないことには。

 わたしは「学びの場」を提供する人なんだなあ、と最近思うようになりました。今日のお客様も「学びの場」としての月の舟を絶賛してくださいましたしね。

 他人様から褒められることが多くても、いろんなことができていない自分への叱責をやめないことには、真の赦しはありません。

「きみちゃん、今日もいろんなことができたね。よくがんばったね。偉かったね。」

 そう褒めてあげましょう。褒めて褒めちぎってあげましょう。

 ただここで生きているわたしは、ただそれだけで大歓喜であること。歓びをもって生まれてきて、歓びのなかで生きている。

 さ、明日も「自分を赦し、大切にする一日」ですよ。