自分のなかに、くつろぐ
2024.01.06更新
地震、大きな事故のなかで、わたしにできることは、今を精いっぱい生きること。自分は無力ではない、祈ることもできるし、痛みのある方に寄り添うことができる。食べ物を提供することもできるし、心が折れた方に女神ヒーリングもできるし、本の読み聞かせもできるし、お布団もいっぱいあるし、たくさんの人を受け入れる家も器もある。
そんな思いを持ちながら、元日から5日が経ちました。きみちゃんとユタカ君は、毎日、きりしま月の舟をオープンし、毎日、料理し、スイーツを作り、掃除をし、論文を書き、読書し、イベントの段取りを整え、温泉に行き、買い物に行き、連絡を取り、いやあ、一分もおろそかにしていないくらい、働き、学び、会話し、充実した毎日を過ごしています。
そして、自分も人も最高に愛しまくっています。
自然災害でなくても、人間の生活は、毎日、事故、病気、思いもよらない出来事がいっぱいで、一喜一憂して忙しい。そのときに、きみちゃんもユタカ君も冷静に、そして深い愛をもって、すべての方と接していますから、毎日、月の舟が安心安全な場であることで、さらにきみちゃんとユタカ君が仲良しであることで、お客様がほっこりと癒されるように、仕事をしております。
不幸も幸福も同じ次元にあり、たとえば、病気はギフトであり、何かに気づくための大きなメッセージ。災害、事故は、他人様の痛みを知り、自分に何ができるかを知る大きなきっかけ。
一昨日は、とても嬉しいことがありました。きみちゃんのこのブログを、噛みしめながら読み返している、というメッセージを頂きました。さらに、このブログを読んで、月の舟を訪ねてくださった方があったのです。しかも、お子さん連れで。とてもしっかりしたお母さまでした。
なんと、素晴らしいなあ。きみちゃんの女神ブログが、こうして他人様の心の支えになっているんだ。張り切って、書き続けるぞ、と決意し、仕事を終え、片付けも終えて、温泉に行き、晩酌をして、ちょっと横になってから、さあ、ブログを書いて、論文を書いてから、寝るぞ、と思っていたら、横になったまま、寝落ちして、目が覚めたら、午前7時でございました(笑)。
途中、午前2時ごろ目が覚めて、通常はここで勉強したり、家事の残りを済ませたり、仕込みをしたりもするのですが、昨日は、また寝ました。
わーお、きみちゃん、あるある(笑)。娘たちの子育て真っ盛りのときも、夕食を作って、みんなで食べて、さあ、片付けてから勉強だ、とちょっとソファに座ったり、床に座ったりしたら、そのまま爆睡体制突入。
で、リビングの床で寝落ちしてしまった場合は、娘たちが、わたしを乗り越えて、部屋を移動しているのがうっすらとわかり、ユタカ君に「このトドを何とかして。夫の勤めでしょ」と言っているのが聞こえた、あの40代の頃のきみちゃん(笑)。
あの頃を思い出す、このお正月。40代のパワーで、このお正月を乗り切ろうとしている66歳。我ながら、偉いなあ。
今年のお正月は、渋滞も例年より穏やかで、何とか車が流れています。三が日を過ぎたら、4日は午前10時から車が混みだし(いつもは午前8時には渋滞が始まります)、1月5日なんて、ほとんど渋滞なし。
コロナ禍のおかげか、人が狂喜して、何かを追い求めることがなくなったかな。パワースポットだから、と殺到するのが、ちょっと和らいだし、年末の買い物のときも、凄い人だかりかと思ったら、安売りスーパーも意外にゆったりとしていた、という感じでした。
ほんの少しずつだけれど、ひとりひとりが「ほんとうの自分」の行きたい場所に行き、「みんなが行くから」という理由で行動しなくなったかな。
きみちゃんが、ここのところ、気になっているのは、罪悪感を持つ女性が多い、ということ。素晴らしい生き方をされている方ほど、理想の母、理想の女性像を求めて、「足りない」ところを補おうとして、努力しておられます。その努力は素晴らしいのですが、誰かに迷惑をかける、とか、できないことにフォーカスしてしまっている。
でもね、大丈夫、わたしたちは、生きているだけで価値がある。無条件に愛されている。無条件に人を愛している。だから、大丈夫。
以前、月の舟@天文館時代に、瞑想のクラスを夜に開講して、瞑想の大久保先生に来ていただいて、10年近く続けました。そのときに「ほんとうの自分」をどう感じるか、という課題のときに、大久保先生は、「自分のなかで、リラックスしている状態」と表現されていました。
そのときは、なんとなくわかる、という感じだったのですが、昨日の朝、心地よい眠りのなかで、「自分のなかで、くつろぐ」という言葉が降ってきて、大久保先生のおっしゃっていたことは、このことか、と思えたのでした。
自分が自分であるとき、自分に価値がある、と満足している状態であるとき、心に乱れのない幸福な状態であるとき、「自分のなかで、くつろいでいる」状態。
きみちゃんは、自分のなかでくつろいでいるから、家のどこでも寝落ちできるわけで(笑)。自宅が安心安全の場である、と言えるのです。ほんとうの自分をさらけ出し、娘たちはトドのような母を乗り越えて、立派に成長したわけです(笑)。
くつろぐ、というのは、自分をとことん許し、罪悪感は全捨て状態で、ほんとうの素の自分で生きている、ってこと。
自分の外側で、どんなひどいことが起こっても、「自分のなかで、くつろぐ」。自分を許す。自分のなかでは穏やかでいる。冷静でいる。だからこそ、情熱が素直に自然に発露して、健康な日々を過ごすことができます。
ここのところ、ほぼ毎日、仕事が終わると、温泉に行きます。結構な頻度で、80代の母親らしき女性を連れた、50代くらいの女性がお風呂に入って、甲斐甲斐しく高齢の女性のお世話をされる光景を目にします。
偉いなあ、娘さん、と思いつつ、きみちゃんも母と何度か一緒に温泉に行き、妹と3人で旅館に泊まったりもして、母と一緒にお風呂に入り、滑らないように手を取ってあげたりもしてきました。
でも、わたしの母は、それを日常にすることを拒否し、また、行こう、と言っても、だんだん「痩せた身体を世間にさらすのがいやだ」と言って、一緒に温泉に行きたがらなくなり、どんなことでもできなくなったことを恥じ、人に見せないようになりました。
いま、目の前で高齢の母親に優しく介添えする娘さんらしき方を見ると、偉いな、と思うと同時に、きみちゃんは、自分の娘たちには、ひとりでゆっくりと温泉に浸かってもらいたい、と願っている自分に気が付きました。
そして、さらにはっとしたのです。わたしの母もまた、いまのきみちゃんと同じ気持ちだったのかも。娘には娘の人生を歩んでほしい。親の介護はしなくていいよ、と。
少しは親孝行をさせてくれてもいいのに、と思っていたけど、会えば、きみちゃんのファッション批評だし、一緒にいても批判ばかりで長時間過ごすのが苦痛だし、もっと娘に何かを委ねて、甘えてくれてもいいのに、と思っていたけど、あの振り切り方は、娘に自分の人生を思い切りエンジョイしてほしいための深い愛だったんだな。
母が施設に入ったときは、わたしが母の面倒を見るべきだったのに、と後悔ばかりがありましたけど、いま、施設で穏やかに過ごしている母をみると、どれだけ深い愛情で、自分を律してくれたんだろう、と思わずにはいられません。
きみちゃんもまた、同じことを考えている。娘たちにはひとりで思い切り温泉に浸かってもらいたい。それはやせ我慢で言っているのではなく、もちろん、時には娘たち、孫たちと温泉に入るのは楽しいことでしょうけど、親孝行はしなくていいよ、と言いたい。
ママは、自力で介護の専門家を雇って、自宅で静かに死ぬわ。でもね、お葬式は派手にしてほしい。黒い服なんて着て来ないで、みんなで、踊って、歌って、笑って、きみちゃんをあの世に送り出してほしい。
結局のところ、すべての幸せの根源は、すべての人が自立すること。そして、すべての人が助けを求めても良いこと。助けて、と言えることも、自立の証ですしね。でも、倚りかかりすぎないこと。
何よりも、怖れを持たないこと。自分のなかで、くつろぐ。くつろぎながら、リラックスしながら、自分の力を最大限に発揮する。最後の最後まで。リラックスした状態じゃないと、能力は発揮できませんからね。
今日もまた、良いことがありました。いろいろと逡巡しつつ、ユタカ君とふたりで何度も話し合い、結局は決断して、魂の友の皆様に、ある提案をしたのですが、皆様、快く笑顔で快諾してくださって、とても嬉しかったし、安心しました。きみちゃんの提案が受け入れられなかったら、もしかしてご縁が切れるかも、と危惧するほどの提案だったのですが、なんと素晴らしい魂の友よ。
媚びることはないんだね。そのことを学びました。
幸福と不幸は、同じ顔をしている。同じエリアにある。ここを乗り越えたら、大歓喜の世界が待っている。
何も怖れることはない。突き抜けろ!その先の歓びを信じて。予祝して。
きみちゃんにも、まだ怖れがありましたね。不安もあった。でも、もう大丈夫。不安や恐れは誰にでもあって、その不安や怖れがあることに気が付けば、もう乗り越えているも同然。
自分のなかで、くつろぐ。それが自分軸を持つということ。ぶれない、ということ。
皆様を愛しています。大好きです。いつもブログを読んでいただき、ありがとうございます。これからも、くつろぎつつ、ありのままの自分で、素を出して、書いていきますね。少しでも、支えになったり、お役に立てれば、嬉しいです。
では、おやすみなさい。