自分にくつろぐ
2021.08.25更新
今日から、小学6年生のルイ君は学校が始まりました。コロナ禍で授業が遅れた分、夏休みが短くなったらしい。といっても、またコロナ禍延長戦ですけどね。
昨夜は、ルイ君、午後10時まで、塾のオンライン授業。午後5時から、延々と。途中、5分の休憩が数回。20分の食事休憩が6時半から20分間。
その20分の隙に、用意しておいた夕食を食べさせます。昨夜のメニューは、豚しゃぶサラダ、ポテトフライ、梅とおかかのおむすび、鯵の南蛮漬け、いわしのコンフィ、ミニトマト、ミネストローネ。ちょうど次女とれなちゃんが帰ってきたので、夕食は一緒にみんなで食べました。
昨日、朝のうちに、「社会を良くする作文」をルイ君とふたりで仕上げました。下書きをして、清書して、2時間ほどで終わった。作文の先生としては、根本的に孫に教えたいことがいっぱいだけど、ま、よし、としましょ。
作文が終わったところで、ルイ君の要望で、ケンタッキーへ。ほぼ毎日、ルイ君とランチしているので、わたしのお財布の紐は緩みっぱなしですけど、お金がなくなったら、死ねばいいだけですからね。今、このときを大切にして、ルイ君を応援します。
今日は、朝、娘と孫ふたりを午前8時までに送り出し、久しぶりにひとりの時間です。すでに、おひるごはん用のカレーも作り終えました。
今朝は、午前4時に目が覚めてしまったので、読書したり、朝食の準備をしたりして、午後6時過ぎに、ゴミ出しに行ったついでに、軽く散歩してきました。
まあ、午前6時過ぎに、もうジョギングしている人がいっぱい。風がさわやかで、気持ちいい。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(藤原敏行)
いい歌ですよね。藤原敏行の妻は、在原業平の妻と姉妹という関係。平安初期の歌人たちは、大らかで快活でいいなあ。これが鎌倉期になって、藤原定家までいくと、秋が言葉の装飾のなかで詠まれていくかな。
そんなことを思いながら、ほんのしばらくの散歩を満喫して、さらにこうしてブログを書く時間というのは、至福の時間です。
わたしが孫たちの応援団長をしている間、ユタカ君はひとりで、きりしま月の舟を切り盛りしてくれています。夏野菜カレーを作り、梨のコンポートを作って、張り切っていますよ。
鹿児島県は、まん延防止地域になっておりますが、ぼちぼちお客様もいらしてくださり、お客様とおしゃべりしたり、静かな交流の時間を持っているようです。
毎日、業務連絡もあって、ユタカ君と電話しあっています。6歳の孫のれなちゃん曰く、「おばあちゃんとおじいちゃん、どんだけ好きなんだろうね。毎日、電話してるよ」ですって。
孫に言われると、照れますね。大笑いしてごまかしていますが、ほんとに、大好きなんだよ、と言いたい(笑)。
ユタカ君はユタカ君で、わたしと知り合った頃の写真をフェイスブックにアップしておりますわ。わたしも知らないわたしの写真を(笑)。
わたしって、どんだけ細かったんだろ。39キロ時代です。長女を産んで、43キロになったかな。今の体重は、ヒミツ。
フェイスブックのコメント欄に、「きみこ先生、美しい」との評がいっぱいなので、あえて本人は黙秘しております。皆様、どんどん書き込んでくださいませね。
思うに、ユタカ君との関係は、文学、というものが介在しているので、深く親密になれている、と思います。夫婦であり、親友であり、仕事仲間であり、文学仲間。
これまでは夫婦一心同体、というのが大嫌いでしたが、最近は、ものの考え方がだいぶ似てきたような。
それでも、人間関係というのは、ときどき衝突を起こすものです。30年以上も付き合っていると、その衝突を回避するカンが働きます。だから、あまりケンカしなくなりましたね。
ルイ君は、わたしたち夫婦の初孫であり、生まれる瞬間、わたしが立ち会いました。出産の様子をビデオ撮影しながら、床にぼたぼた涙が落ちて、深く感動しました。
孫ができて、「ああ、わたしの使命はこれで終わった」とさえ思いましたもの。ここまで命をつなぐことが、わたしの使命のひとつだったんだなあ、と思ったことを昨日のように思い出します。
ルイ君と次女が退院する日、わたしの両親と弟嫁さんが、祝い膳を用意して、待っていてくれました。父は86歳で亡くなり、母は91歳。ルイ君11歳。
あのときの感謝は、今でも両親、弟嫁さんに対して、深く持ち続けています。嬉しく、ありがたい祝い膳でした。
それから、半年以上、我が家で育ったルイ君。そして、成長につれ、応援し続けてきました。
今日から妹が、91歳の母のところに泊まりに行ってくれるので、わたしは孫三昧ができます。これまた感謝です。わたしは、母への感謝を、孫たちに向けているかな。
さて、先日、次女が面白い話をネットで見つけて、教えてくれました。それは、「夏休みの宿題を全くしなかったときの、自分と家族の反応について」という小学6年生の自由研究です。
夏休み前半は、宿題のことなんてすっかり忘れて過ごしていたけど、後半になって焦りが出てきた。でも、宿題をするわけにはいかない。だって、自由研究の課題だから(笑)。
で、夏休み最終日。宿題をしていないことがわかったら、おじいちゃんとおばあちゃんは、真顔で「大丈夫かい?」と聞いてきた。父親は、「おれもそうだった」と笑っているだけ。母親は、毎日、「宿題、やったの?」と聞いていたのに、「やってるよ」とのうそに呆然とし、お皿を一枚割った、というもの。
この母親がお皿を一枚割った、という部分に、大笑いしました。わたしだったら、食器棚の食器を全部割ってしまいそう。
先日も、塾のオンライン授業の前に、プリント類、テキスト類を用意し、準備万端でズームでの授業が始まった、と思いきや、ルイ君、ばたばたと部屋から出てきて、「東北地方のプリントがない」とプリントの山をかき分けます。
なんでーーーーーーー。あれほど、プリント類、揃ってる?と念を押したでしょ。そう大声をあげるわたし。「もしかしたら、もらってないかもしれない」というので、じゃ、先生に、ズームで聞きなさい、というと、おばあちゃん、顔出さないで。カメラに映らないで」とルイ君。そりゃそうだ。こんなばばあが映ったら、ほかの生徒さんがびっくりしますわ。
ブリブリしながら、様子を見ていると、用意してあったプリント類のなかに、東北地方の分もあったらしく、物静かに授業を受けているルイ君。
やれやれ。思うに、次女も忘れ物の多い子だった。かくいうわたしも、物忘れ、遅刻の常習犯で、どんくさい子だったなあ。しっかり者の母をどれだけ心配させたか。
でも、ルイ君と同じく、お勉強は大好きだったので、トラブルがあっても、気持ちを平常に戻すのも上手だったな。
こういう忘れ物の多い子は、なんだかんだと周囲の応援を受けて、健やかに育つんだわ。わたしがそうだったし、次女もそうだし。ま、心配ない。
そう思って、お皿を100枚くらい割りたい衝動を抑えて、3日ほど経ちました。
今朝も、「おばあちゃん、なんで、学校のプリント、こんなところに置いてるの?」と偉そうに言うルイ君。知らんがな、ときみこばあば。「行ってきます」とドアを開けて出て行ったものの、また帰ってきて、水筒、忘れた、と麦茶をどぼどぼ水筒に入れるルイ君。
3日のうちに、気持ちが落ち着いているばあばは、こういう情景も静かに受け入れるようになりましたとさ。
そして、愛読しているメルマガ「星のしずく」に紫音先生が素敵なことを書いてくださっていました。
「成功とは、自分という存在にリラックスしている状態です」
なるほど。大木ゆきのさんのおっしゃる「あるがままの完全な自分」というのは、こうして、自分にリラックスしている、ってことなんだなあ、と気づきました。
わたしはスピリチュアル系の本やSNSを広く読んでいるので、違う先生の意見がピタッと重なり、ああ、これが真実なんだなあ、と深く理解できることがあります。
心屋仁之助さんの「わたしって凄い」と思うことが成功の秘訣、という見解も、「自分という存在にリラックスしている」ということにつながる、と思います。
有川真由美さんの「罪悪感との付き合い方」で「ただただ許すこと」という考えも、同じ延長線上にあります。
「わたしたちは、ありのままで完全です」というフレーズを身体で理解した瞬間でした。
以前、瞑想の大久保聖子先生が、「自分にくつろぐ」ことが成長の秘訣とおっしゃったことも思い出されます。
自分にくつろぐ。そうしたら、自分を責めない。追い立てない。許すことができる。平静な気持ちでいられる。
自分にくつろぐ。なんて素敵な言葉でしょうか。自分のなかに不安や緊張がない。安心と確信に満ちた気持ちがある。
64歳にして、ようやく自分軸が定まってきたかな。別に何か軸を立てなくても、わたし、という軸が定まっていればいいんだなあ。そう思うと、別にどんなことも怒る必要がなかったりして。
孫を応援するつもりが、自分が応援されてる感じ。孫との時間は、気づきに満ちています。
さ、あと一週間。自分にくつろぎながら、孫時間を楽しみましょ。