きりしま月の舟

免疫力がついた!

2021.06.25更新


 6月22日から24日まで2泊3日で、91歳の母が霧島の我が家に泊まりに来ました。

 弟夫婦が実家の母の隣りに住んでくれて、もう何年たつかな。父が死んで10年。その前からだから、15年くらいかな。ありがたいことです。

 母の家をメンテナンスする必要が生じて、霧島では紫陽花がちょうど美しく咲いているし、花の好きな母が歓ぶだろうと、霧島の我が家に来てもらったという次第。

 わたしは、ずっと高齢の母の面倒を見ることにおいて覚悟はできています。そのことを伝えてもあったのですが、母は頑として、自分の家がいい、と言います。それで、弟夫婦にいつも頼り切って、老齢の母を介護することもなく、ありがたい身分でいます。特に、弟嫁さんには感謝でいっぱいです。

 わたしたち夫婦が母の家で同居するという手もあったはずなのに、霧島の家を建てる時も、そのことが頭をかすめもしなかったし、母もそれを要請することもありませんでした。どうしてだろうなあ、と思います。同居はお互い嫌だなあ、と思っていたのでしょう。

 母は、霧島の家をとても気に入っています。もともとは、両親が別荘用に買った土地でもあるし、母にとっても思い出深い土地でもあるのでしょう。「ここは空気がいいねえ」と歓んでくれます。家もきれいに片付いている、と合格点が出ています(笑)

 6月22日は、午前7時に家を出て、午前8時40分からの鹿児島県立短大の講義を終え、歯医者で治療をし、カフェのランチ用のおさかなだの、果物だのの買い物をして、鹿児島大学のレポートを受け取りに行き、母の迎えに伊集院に着いたのが午後1時。

 母は弟が午後2時に送ってくれるものと信じ込んでいて、ゆっくりとしていたそうです。多分、弟が説明したことを誤解したのでしょうが、慌てて、忘れ物をした、とごねておりました。

 それでも、ユタカ君の運転する車に乗り込んで、一時間以上のドライブも元気に過ごしてくれました。おかげで、早めのお風呂、早めの夕飯と段取りよく進めることができました。

 お風呂の掃除もして、お風呂用のいすも買い替えて、準備万端。ひとりで入る、ときかずに、途中、シャンプーはどれ?と聞いてきただけで、ひとりでお風呂に入ります。でもなにしろ91歳、よたよたするので、心配です。お風呂上りも、ひとりで着替える、と言い張りますので、そうするように段取りします。

 ひと仕事終えたかのように、ふーーーー、っと言いながら、お風呂からあがり、ユタカ君と3人で晩酌。ビール好きな母が焼酎が飲みたい、というので、焼酎のお湯割りを用意しました。

 わたしのビールも小さなコップについで、母にも差し出すと、やっぱりビールだね、と美味しそうに飲みます。

 大豆と切り干し大根、人参と鶏肉を煮たのを持参し、わたしたちに食べさせようとします。あと、魚のから揚げも作って持ってきました。

 最近の母の料理は味が濃すぎて、びっくりするほどです。大豆と鶏肉の煮込みもかなり味が濃かったのですが、母は自作の料理、しかも新作に自信があるみたいで、美味しいと言って、もりもり食べておりました。

 わたしはお刺身を用意しました。タカ海老をはじめて食べた、と母は言います。きびなごの塩焼きも作りましたが、「きびなごなんて、食べない」と下賤な魚は嫌、とのたまいます。タイの刺身も食べ飽きたそうです(笑)。それでも、タイとカンパチの刺身をおいしそうに食べて、ビールも焼酎も飲み干しました。

 まだ午後7時半でしたが、ベッドに入ることを促したら、そのまま寝ました。長時間の移動、アルコールで、ぐっすりと眠れたそうです。

 翌朝は、午前5時からテレビを観ようとしたら、テレビがつかなかったそうで、新聞を取りに玄関へ出たところで、ちょうどわたしが起きてきたのでした。

 わたしたち夫婦の勉強の時間を邪魔してはいけない、という配慮はいいのですが、「さ、早く、勉強しなさい」と促し、「お茶碗は、母ちゃんが洗っておくから」というので、「うちの台所だから、何もしないで」とお願いしました。

 ゆっくりしてほしいのに、役に立たない人間はクズだ、くらいの勢いで、家事をやろうとします。立っているのさえ、おぼつかないのに、まだわたしたち夫婦の補佐役をやろうとして、「早く、カギを閉めなさい」だの「戸締りをしっかりとした?」だの、うるさい。

 わたしは、母に親孝行したい気持ちはいっぱいありますが、自分のペースを乱さないことを心掛けました。味の濃い煮つけには、「味が濃いよ」と言うし、しなくていいことにはNOを言います。

 子どもみたいに、させてあげる感覚ではいけない、と思うのです。ここからは、わたしの管轄、だから手も口も出さないで、というルールを貫きました。

 それがよかったのか、23日の朝は、朝食のあと、さっさと自分の勉強を始めたわたしを横目に、ユタカ君が母を庭に連れ出し、草取りをしながら、花の説明をしておりました。

 ユタカ君が草取りをしながら移動することに、大変感動した母は「あんたたちは偉いねえ。働き者だ」とわたしまでお褒めにあずかりました。

 そして、よたよたしながら、月の舟にあがってきて、一緒にお茶をして、ユタカ君作成のプラムゼリーをおいしそうに食べましたよ。朝食も、よく食べました。

 そのお茶の時間を2分の動画にして、天才夫婦チャンネル第6弾としてアップしましたら、大好評。動画で見ると、91歳の母の元気さ、気品の高さが際立ちます。

 よく働くことは、母の遺伝子であり、母から学んだことだなあ、と思います。なんだかんだと口実をつけて、怠ける人がどうも好きではないんだな、と最近気が付きましたが、逆に働き者は大好きですし、自分もつねにそうありたい、と思います。

 いろんなことを母のおかげで達成できていることを、母に感謝すると、「あなたたちの働きだよ。それに運がいいね、あんたたちは」と言ってくれます。

 わたしの大好きなリスペクトの空気が蔓延して、愛と感謝に包まれた時間。ありがたいこと限りなし。

 お茶の時間の後、母はしばらく仮眠して、起きたところで、霧島神宮に参拝。ようやく拝殿の階段をあがり、よたよたしながら歩き切りました。

 そして、お昼ごはんは「がまこう庵」へ。長寿そばを半分ほど食べました。とても美味しそうに食べて、こちらまでうれしくなります。

 帰りに、アラミニッツに寄って、シュークリームを買って帰り、またお茶の時間。シュークリームも美味しいと言って、半分食べました。それから、母は昼寝すると思いきや、テレビを観て過ごしていますので、わたしもユタカ君もそれぞれの仕事をします。

 仕事がひと段落ついたところで、さあ、夕飯の支度をしよう、と自宅のキッチンに立つと、母がすかさずやってきて、「あんたも勉強で疲れているでしょ。母ちゃんが何か作ってあげよう」と言います。

 わたしは優しくないし、自分の仕事のパフォーマンスを低下させたくはないので、子どもに料理を手伝わせるようには、料理上手な母であっても、手伝ってはもらいません。立っているだけでもおぼつかないし、わたしの台所は、わたしのお城なので、最愛の母といえども、立ち入り禁止です。

 「いいよ、大丈夫」と言うのですが、耳の遠い母は聞こえないらしく、大きな声で「手伝わなくていいよ」というと、それが怒って聞こえているみたいで、「この山芋ほいが」と言い捨てて、またテレビ観戦すべく椅子に座りなおします。

 山芋ほい、というのは、鹿児島弁で、腹を立てて、大きな声を出す人、という意味です。母のこうした捨て台詞はもう慣れていますから、ほおっておきます。

 年を取って、仕事がない、やることがない、というのは母の課題であって、わたしの課題ではないので、タッチしません。

 他人の人生に土足で上がり込んで、ああしろ、こうしろ、ここがよくない、あそこを改善せよ、と他人の人生にダメ出しをすることはしない、ということは、意識しているつもり。子育ても優しく見守ってきたつもりだけど、どんだけできているかなあ。

 わたしの文学講座の受講生の皆様は、「みたけ先生は否定しないところがいい」と言ってくださいます。鹿児島県立短大の学生さんたちとも、55人分、交換ノートを4月からずっと続けていますが、励ますことはあっても、ダメ出しはないなあ。「こんなに簡単に言い切ってはいけない」という示唆はしますけどね。

 おかげさまで、否定しないで、褒めること、そのことが他者と信頼関係を保つ大きな原動力になっています。

 ユタカ君との関係も、相手の世界に土足で立ち入らないことを鉄則としていますから、それがわたしたち夫婦の天才の根拠(笑)、仲良しの秘訣だと信じています。

 青春時代に戦争を体験した母たちの世代は、容易に他人を信頼しません。他人との関係は悪くなる、ということが前提です。関係を良くするためには、相手の思いを先取りするとか、徹底して上から目線の位置に立ち続けるとか、そういう手段を使うようです。

 生き抜くのにそうするしかなかったでしょうし、また親を早くに亡くしたりして、兄弟の面倒を見る立場であった母たちの世代は、そうして生きてきたんだなあ、とわたしは60年かけて、理解してきたつもりです。その理解に、文学の勉強がどれだけ役に立ったか計り知れません。感謝、感謝。

 夫婦関係も親子関係も、母はつねに相手にダメ出しをしたり、矯正をしたりすることで、闘ってきたという感じです。いつも冷静そうに見えるけれど、腹を立てたら負け、みたいなところはありますね。その分、怒りを言葉に込めて、毒を吐いています(笑)。

 おかげで、小さい時から、両親は喧嘩が多く、仲の良い時もいっぱいあったけれど、緊張感あふれる家庭で育ちました。父も母も情愛の濃い人ですが、他人の人生に土足で上がりすぎる。厳しい批判が人を育てる、と信じていたフシがあります。

 華やかなアナウンサーを経験された素敵な女性が、実は職場でものすごい裏切りに遭遇し、そのストレスがもとで病気になったというお話を最近知ったのですが、わたしの場合、大きな組織で働いた経験もないのですが、ものすごいパワハラはすでに家庭で経験していたから、免疫ができていたんじゃないかなあ、と思いました。

 まあ、うちの実家は、愛情たっぷりの上の暴言ですから、土台が違うのですが、実にワイルドな家庭であったおかげで、わたしは、社会、世の中というものが怖くない。これはほんとにありがたいことだなあ、と思います。

 さて、母を囲んでの二日目の夕飯。前日のお刺身の残りをサラダにして出したら、「これって、昨日の刺身?こんなもんは食べないよ」と母上はおっしゃいますので、「あ、そう」と軽く流します。

 某美人タレントさんの旦那さんが、DVで逮捕されたニュースは記憶に新しいですね。もちろん暴力もあったけれど、朝食を用意しろ、と言われたので、用意すると、まったく手を付けないで、そのままだった、という報道をテレビで見て、わたしは我が母を思い浮かべました。

 わたしの手料理や食べ物を持参しても、ほとんど受け取らない。受け取ってくれて、良かった、と歓んでも、次に行ったときに「あれは美味しくなかったから、捨てた」とのたまいます。

 まあ、そういうことには慣れていますから、昨日の刺身を召し上がっていただけないのは、どうってことないです。そうだろうなあ、そこは予測していなかった、とユタカ君とふたりで笑いながら反省しました。

 母は、ビールが美味しくない、やっぱり焼酎だ、と言って、お湯割りを飲みます。ユタカ君が作ってあげると、「薄い」とダメ出しをします。自分が持ってきた大豆と鶏肉の煮込みをご飯にかけたものを「こんな栄養があって、美味しいものはない」ともりもりと食べます。あと、わたしが出した朧豆腐だとか、ユタカ君が揚げてくれたナスの天ぷらだとか、よく食べました。

 いつも小食の母が、わたしたちとの晩酌でよく食べたので、ちょっとおなかの調子がよくないようで、また、わたしが遅くまで起きていて、電気が明るく灯っているから眠れなかったと、24日の朝は、少し元気がなかったかな。

 わたしは、母が電気が明るすぎる、というので、早々に自分のベッドルームで読書をして、朝は午前5時に起きて、ランチの仕込みをしていたのですが、母はそのおかげで眠れなかったようです。まあ、何かというと「他人のせい」というのは、母のいつものルールですから、これもまたスルーします。

 そして、「あんたがこんなに働いているのに、何もできないわたしは邪魔になるばかりだね」とまた嫌味に近い言葉を吐くので、ユタカ君に午前7時半には実家に送って行ってもらいました。

 送り出すときに、「また、来てね」というと、母は「もう来れないかも。だって、ここにわたしがいたら、邪魔だから」と言います。

 それでも、「また来てね」と何度も言いました。そして、笑顔で送り出しました。あとから、ユタカ君が「あなたが何度も、また来てね、と言ったのには感動した」と言ってくれました。

 外出から帰ってきたら、温かいおしぼりで母の手を拭いてあげたり、お布団も最高級のをそろえて、まあ、高級旅館並みのおもてなしをしたつもりです。

 母曰く「学生のときのあんたは、まったくぼんやりだったのに、今は気が利いて偉いねえ」

 学生のわたしと、63歳のわたしを比べられても困るのですが、ま、褒めてもらって、ありがたいことです。

 自分軸をしっかりともって、そこにはユタカ君だろうが母だろうが最愛の娘たちや孫たちだろうが入らせない、というわたしのスタンスは、実にいい。母の暴言毒語にもしっかりと太刀打ちできます。

 東京の妹から電話があったので、ビデオ通話にして母にも見せたら、それも喜んでいましたね。やはり、この妖怪のような母をもてなすのに、妹が加わると百人力です。頼りになるなあ、と思いました。

 母は、いわゆる母性の塊のような人ではないのですが、働き者で、自立心旺盛で、尊敬しています。

 母を送り出したあと、弟に電話をしたら、優しく受け入れてくれました。兄も頼りがいがあるし、兄嫁さん、弟嫁さんも最高に母性的な方々なので、母はこの上なく、幸せ者だと思います。わたしの娘たちをはじめとして、甥っ子、姪っ子たち、ひ孫の皆様がたも、母にかわいがってもらいましたから、おばあちゃんを尊敬し、大好きです。

 これから、さらに弱っていく母をどうするか、他人をコントロールすることなく、リスペクトしあって、協力しあっていきたいと思います。

 これからわたし自身も老いていく身。娘たちとしあわせな関係でいるように、お互いに距離をとり、リスペクトしあっていきます。

 ユタカ君は、老兵は去るのみ、という考えを強くもっています。けれど、わたしはあと30年、集大成としての仕事を残していきたい。もうひと踏ん張り、自己表現していくつもりです。

 どんな仕事をしていくか、お楽しみに。おしゃれも頑張りますよ。やはり、91歳まで元気におしゃれに生きている母は、大きな励みになります。

 ありがとう、母ちゃん。また来てね。ユタカ君もありがとう。婿として、けっこう、気を遣ったみたいですよ(笑)